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ニュース 2ちゃんねる新着絞込20選@びんたん

15.12.15

アダム・スミス 国富論ゟ~

「おおかたの人間の理解力というものは、かれらが従っている日常の仕事によって必然的に形成される。

その全生涯を単純な作業に費やす人は・・・神の創り給うた人間としてさる下がれるかぎり愚かになり、無知になる。」


資 本の利潤とは、ある特定の種類の労働、すなわる監督し指揮する労働の賃金にたいする別名にすぎない、と考える人があるかもしれない。けれども利潤は、賃金 とはぜんぜんちがったものであり、まったく異なった原理によって規定されるものであって、監督し指揮するというこの想像上の労働の量や辛さや創意とは、少 しも比例するものではない。
利潤は、用いられる資本の価値によってまったく規制され、この資本の大きさに比例して、大きくもなれば小さくもなるのである。


人 はだれでも、自分自身の持っている元本から収入を引き出す場合には、それを自分の労働からか、自分の資本からか、自分の土地からか、このどれかから引き出 さなければならない。労働から引き出される収入は、賃金とよばれる。資本から、それを管理または使用する人によって引き出される収入は、利潤とよばれる。 自分では資本を使用しないで、それを他人に貸し付ける人がその資本から引き出す収入は、利子または貨幣の使用料とよばれる。
(略)すべて土地から生じる収入は地代とよばれ、地主に帰属する。


し たがって、賃金で生活する人々にたいする需要は、あらゆる国の収入と資本が増加するにつれて必然的に増加するのであって、それなしにはとうてい増加しえな い。収入と資本の増加は国民の富の増加である。それゆえ、賃金で生活する人々にたいする需要は、国民の富が増加するにつれて自然に増加するのであって、そ れなしにはとうてい増加しえないのである。


「利子、または貨幣の使用料」
これは、借手が貸手に支払うものであり、借手が その貨幣の使用によって儲けることのできる利潤にたいする報償である。その利潤の一部は、危険をおかし面倒をいとわないで貨幣を使用する借手にとうぜん帰 属する。また他の一部は、借手にたいしてこうした利潤を儲ける機会をあたえる貸手に帰属する。利子はつねに派生的な収入であって、もしも貨幣の使用によっ てあげられる利潤のなかから支払われなければ、かならず他のある収入源泉から支払われなければならない。


もし親方たちが、理性と人間性の命じるところつねに目をかたむけようとするなら、かれらは自分たちの多数の職人の働きを鼓舞するよりも、むしろそれを適度に加減させることがしばしば必要となる。
恒常的に仕事ができるように適度に働く人が、自分の健康を最大限に保持するばかりか、年間をつうじて最大量の仕事をやりとげるということが、あらゆる種類の職業において見出される、と私は信じている。


豊かな労働の報酬は、富の増大の結果であるが、同じくまた、人々の増加の原因でもある。


お そらくここで注目に値することは、労働貧民の状態、すなわち大多数の人民の状態が最も幸福で最も快適であるように思われるのは、社会が富をとことんまで獲 得しつくしたときよりも、むしろ富のいっそうの獲得をめざして前進している発展的状態にあるときであるということである。


職人は、出来高払で豊かな報酬を受けると働きすぎになって、数年のあいだに健康を破壊しがちにさえなるものである。


[利潤の高さは富の大きさに依存し、資本の増加は利潤を低下させる傾向がある。]

多数の富裕な承認の資本が同一事業にふりむけられるとき、かれら相互の競争は自然にその利潤を利き下げる傾向がある。


どんな国においても、通常の市場利子率が変動するのをみると、資本の通常利潤もともに変動しているにちがいない、と確信してもよい。すなわち、前者が下がると後者も下がり、前者が上がると後者も上がるにちがいない、と確信してよいのである。


[富の大きさまたは資本の増加がかならずしも利潤の低下を意味しない場合もあり、また資本の現象が利潤を引き上げる場合もある。]


大きい資本は、たとえ小さい利潤しかあげていなくても、一般に、大きい利潤をあげる小さい資本よりも急速に増加する。


金が金を生む、という諺がある。金というものは、わずかでも手に入れておけば、もっと多くが手に入りやすいものである。ただ、ひどくむずかしいのはそのわずかを手にすることにある。



[富めるだけ富んでしまった国では賃金も利潤も非常に低い]
一 国の国土によって維持され、またその国の資本によって雇用される程度以上ぬ人々が満ちあふれている国では、職業をもとめる競争が必然的に激しくて、そのた めに労働のチン議運は労働者の数をやっと維持するにたるところまで引き下げられるであろう。またその国は、すでに人々が満ちあふれているのであるから、労 働者の数はけっしてそれ以上増加するはずもないのだろう。その国で営まれるべきすべての事業に比して資本がありあまる国では、事業の性質と規模がゆるすか ぎり、大量の資本がすべての個々の部門で用いられるだろう。それゆえ競争はいたるところで激しくなるだろうし、また、その結果、通常の利潤はぎりぎりまで 低くなるだろう。



長期の従弟修行という制度には、青年を勤勉にしたてあげるという効果はない。
出来高払で仕事を する職人は、勤勉に働けば働くほど儲かるから、どうしても勤勉になる。従弟の場合は、勤勉になったところで直接なんの儲けにもならないから、怠けがちにな り、また事実たいてい怠けるのである。つまらない仕事では、労働の楽しみはもっぱら労働の報酬にある。その楽しみを最もはやく受け取れる状態になる人は、 それを味わうことに最もはやく思いをめぐらし、そしれまた勤勉の習慣をはやく身につけがちである。若い人は、長いあいだその労働からなんの利益も受けない でいると、労働に嫌悪の情をいだくのが自然である。



賃金および利潤が高いか低いかは、価格の高低の原因であるが、地代が高いか低いかはその結果である。



[賃金と利潤は価格の原因であり、地代は価格の結果である]


食に次いで、衣と住とが人間の二大欲望である。


食物にたいする欲望は、だれでもその胃の腑の容量に限りがあり、それに制限されるが、しかし建物、衣服、馬車一式、家具付器等の便益品や装飾品にかんする欲望には、一定の限度もなければ限界もないように思われる。


[土地の通常の市場価格はどこでも通常の市場利子率に依存している]

承認の資本は、ある地方の余剰生産物を他の地方のそれと交換し、こうしてこの両地方の産業を刺激し、両地方の暮らしを豊かにする。


・一般民衆のあいだに飲酒を好む傾向が広く生じるのは、居酒屋の数が多いからではない。そうではなくて、じつは他の原因から生じる飲酒癖のために、必然的に居酒屋の数が多くなって繁昌するのである。



・資本が用いられるすべての方法のうちで、農業に用いられるのは、社会にとってこのうえなく有利である。


・資本は、国内に留まっているものもあれば、そうでないものもある。国内に留まっている点からみて、農業、製造業および貿易業の順で資本を投下するのが国にとって有利である。


・卸売業には、国内商業、直接外国貿易、中継貿易の三つがある。このうち国内商業に用いられる資本が最も多くの生産的労働を雇用する。


・あらゆる国の富と、富に依存するかぎりでの国力とは、年々の生産物の価値、すなわち、いっさいの租税が終局的に支払われるもととなるはずの基金に、つねに比例するにちがいない。


・ あらゆる国の政治経済学の偉大な目標は、この国の富と力を増大させることにある。だから、その目標としては、国内商業よりも消費物の外国貿易を、またはこ の二つのどれよりも中継貿易うぃ、優先させたり特別に奨励したりすべきではない。また、消費物の外国貿易と中継貿易という二つの水路のどれにも、この国の 資本のうち自然にそこへ流入する分以上のものを、強制したり誘引したりすべきではないのである。けれども、こうしたさまざまな貿易部門は、そのどれも。制 限や暴力なしに事物の自然の成行きによってもたらせたものであるならば、これは有利なことであるばかりか必要であり避けがたいことでもある。


・沿海の地域一帯や、すべての航行可能な河川の沿岸が産業にとって有利な位置にあるというのは、これらの地方では、そのような余剰を輸出し、その地でもっと需要される他のものと交換することを容易にするという理由にもっぱらよるものである。


・その国の生産的労働と年々の生産物の価値とを維持するためには、消費物の最も迂回的な外国貿易も、場合によっては、最も直接的な外国貿易と同じくらい必要なこともありうるのである。


・ 国内商業の大きさと、それに用いられる資本の大きさとは、その国内で、たがいにそれぞれの生産物を交換する必要のあるすべての遠隔地方の余剰生産物の価値 をによって必然的に制限される。消費物の外国貿易の大きさは、その国全体の余剰生産物の価値と、それで購買されるものの価値とによって必然的に制限され る。さらにまた中継貿易の大きさは、世界中のさまざまな国の余剰生産物の価値によって必然的に制限される。だから、その可能な大きさは、前の二つのそれに 比して無限といってよく、最大の資本を吸収できるのである。



・大地を耕すことはそもそも人間本来の使命であったから、人間はその生活史のあらゆる段階を通じて、とくにこの原始的な職業を愛好しているように思われる。


・ 大資本家に生まれついた者には、たとえかれが生来の節約家であるとしても、かかる緻密な注意を行きわたらせることは、まずほとんど不可能である。そういう 人の境遇は、当然のことながら、かれにとってほとんど必要のない利潤などに注意を向けさせるよりも、むしろ、かれの好みを満足させる奢侈装飾のたぐいに注 意を払うような気になるものである。


・奴隷の仕事というものは、一見したところ、かれらの生活費だけ出せばよいように見えて、そ の実、結局もっとも高くつくことを明示していると思う。財産を取得できない人間は、できるだけたくさん食べ、できるだけ少ししか働かないことだけを考え、 ほかにはなんの関心も示さないものである。奴隷の生活資料をまかなうのに十分な量を超えて、さらに仕事をさせるということは、ただ力づくでのみできるので あって、奴隷がすすんで働くなどということはない。


・人間には自尊心があるので、威張ることが好きである。したがって、目下の者 を説得するために自分が下手に出なければならないということほど、人に屈辱感を与えるものはない。それゆえ、法律が許し、また仕事の性質上も差支えないな らば、人は一般に、自由人よりも奴隷を使うを好むであろう。