滑稽の極みとしか言いようが無い。
アレは駄目だろうに。常識的に考えて。
会社員の立場にもなってやってくだしゃい。
ただ、脳が麻痺しとるかどうか定かではないが、アレを誇らしげに首からブラ下げている香具師も多いから注意すべし。
彼らには、羞恥心は愚か、人間としてのラディカルな心の病が垣間見えると見える。
首輪されとるのに何の疑問も感じることの出来ない、イチシャカイジン。
鉄の足枷だわなぁ。。。
弁護士のボタン、暴力団員のボタン、これらに値する。
『死の家の記録』121-123頁
アレは駄目だろうに。常識的に考えて。
会社員の立場にもなってやってくだしゃい。
ただ、脳が麻痺しとるかどうか定かではないが、アレを誇らしげに首からブラ下げている香具師も多いから注意すべし。
彼らには、羞恥心は愚か、人間としてのラディカルな心の病が垣間見えると見える。
首輪されとるのに何の疑問も感じることの出来ない、イチシャカイジン。
鉄の足枷だわなぁ。。。
弁護士のボタン、暴力団員のボタン、これらに値する。
『死の家の記録』121-123頁
第一部第五章
金というものは──もうまえにも言ったように──監獄ではひじょうに大きな意味と力をもっていた。絶対的に断言できるが、獄内ですこしでも金をもってい る囚人は、ぜんぜんもっていない囚人の十分の一も苦しまずにすんだ。もっとも、もっていない者でも全部官給品で保証されているから、何のために金が必要な のだ?──これが上司の考えではあった。ところがそうではないのである。もう一度言うが、もし囚人たちが自分の金をかせぐいっさいの可能性を奪われたとし たら、彼らはあるいは発狂するか、あるいは蠅のように死んでしまうか(何もかも保証されているといっても、それは別である)、あるいは、ついには、いまだ かつてないような凶悪犯になってしまうかもしれない。ある者はさびしさのあまり、またある者はどうでもいいから早く罰を受けてこの世から消してもらうか、 あるいは囚人用語をつかえば、何とかして『運命を変え』たい一心からである。囚人がほとんど血のにじむような汗をしぼってわずかばかりの金を得て、あるい はそれを得るために途方もないことを考え出し、よく盗みやだましというてまでつかっても、そのくせはいった金はまるで無分別に、子供としか思われないほど 無意味に浪費してしまう、しかしこれは、ちょっと見にはそう思われるかもしれないが、けっして囚人が金を重んじないことを証明しているのではない。金に対 して、囚人はふるえが来るほど、前後の見さかいがなくなるほど貪欲である、そして実際に、浮かれ騒ぐとき、金をまるでこっぱのようにばらまくとすれば、そ れは金よりももひとつ上と認めるものがあるためである。囚人にとって金よりもひとつ上のものとは、いったい何だろう? 自由、あるいは自由に対するせめて もの憧れである。囚人は空想が好きである。これについてはあとですこしふれようと思うが、言葉ついでに、信じられないかもしれないが、わたしは、二十年の 刑に服している囚人から、ひどく落着きはらって、「まあそのうち、ありがたいことに、刑期が満了したら、そのときこそ……」というような話を、直接に何度 も聞かされたのである。『囚人』という言葉の意味は自由意志のない人間ということである。ところが、金をつかうことによって、彼はもう自分の意志で行動し ているのである。どんな刻印を押されていようが、足枷をつけられていようが、呪わしい監獄の柵で神の世界からさえぎられ、檻の中の獣のようにとじこめられ ていようが──彼はやはり酒のような、かたく禁じられている楽しみを買うことができるし、女を抱くこともできるし、ときには(いつもうまくゆくとはかぎら ないが)廃兵や下士官のような身近な役人を買収することさえできるのだ。彼らは、彼が法や規律を破っているのを、見て見ぬふりをしてくれる。そればかり か、それらの下っぱ役人たちに対していばることだってできるのだ。ところで囚人たちは、このいばるということ、つまり自分には他人が思うよりも何倍も自由 意志と権力があるのだということを仲間に見せ、せめて一時でも自分もそう思いこむことを、おそろしく好んだ──一口に言えば、豪遊することも、ばか騒ぎを することも、他人をくそみそにこきおろすことも、おれは何でもできる、何でも『おれの思うまま』なのだということを、他人に思い知らせることもできるの だ、つまり哀れな者なら考えることもできないようなことが、自分はできるのだと思いこみたいのである。ついでだが、おそらくここから、素面のときでさえ囚 人に見られる、いばったり、自慢したり、たとい見えすいていても、滑稽に無邪気に自分をえらく見せようとしたりする一般的な傾向が生れてくるのであろう。 最後に、こうしたばか騒ぎにはそれ相応の危険がある──ということは、はかないものにせよ、生活の幻影、遠い自由の幻影があるということである。ところ で、自由を得るためには、人間はどんな代償も惜しまぬものだ! 首に縄をかけられた場合、一口の空気を吸うために、全財産を投げ出さないような百万長者が あろうか?
何年間もおとなしく模範的な暮しをして、りっぱな行いのために囚人頭にさえ任命された囚人が、突然何のいわれもなく──まるで悪魔にとりつかれたみたい に──浮かれだして、酒を飲んだり、あばれたり、ときにはわけもなくいきなり刑法にふれるような犯罪を犯したり、あるいはあからさまに上司を侮辱するよう なことをしたり、あるいはだれかを殺したり、暴力を振ったりなどして、役人たちをびっくりさせることがときどきある。みんなそれを見て、唖然とするが、し かし、だれよりもそんなことをしなそうに思える人間に、突然こんな爆発が起る理由は、おそらく──個性のもだえるようなはげしい発現であり、自分自身に対 する本能的な憂愁であり、自分を、自分の卑しめられた個性を示してやりたい願望であり、それが不意にあらわれて、憎悪、狂憤、理性の昏迷、発作、痙攣にま で高まったものであろう。それは、おそらく、生きながら埋葬されて、墓の中で意識をとりもどした亡者が、どんなにあがいてもむだだと、理性では知りながら も、夢中になって蓋をたたき、押しのけようともがいているようなものかもしれない。だが、そこにはもう理性どころではない、狂おしい発作があるだけだとい うところに、問題があるのだ。さらに、およそ自由意志による自己の表示というものが、囚人にあっては犯罪と見なされていることを考えてもらいたい。だから 囚人にとっては表示が大きかろうが小さかろうが、まったくどうでもよいのである。酒を飲むなら──とことんまで飲めばいいし、危険をおかすなら──どんな 危険でもおかし、人を殺そうとかまわない。要は、ただはじめさえすればいいので、そのうちに酔いがひどくなって、抑えがきかないようなことにもなる! だ から、何としてもそこまでは行かないようにすることである。そのほうがみんなが安心していられる。
だが、それにはどうしたらよいのか?