焚書
焚書(ふんしょ、英語: book burning, biblioclasm, libricide)は、書物を焼却する行為。通常は、支配者や政府などによる組織的で大規模なものを指す。言論統制、検閲、禁書などの一種でもあり、特定の思想、学問、宗教等を排斥する場合、逆に特定の思想等以外を全て排斥する場合がある。現代では書物の他、レコード、写真、磁気テープ、ディスクメディアなどの情報格納メディアも対象に含まれる場合がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/焚書
禁書
https://ja.wikipedia.org/wiki/禁書
禁書(きんしょ)とは、時の権力を代表する政府、あるいは宗教的・イデオロギー的な権威によってある書物の出版や販売を禁止する行為あるいは禁止された書物である。
主な焚書[編集]
始皇帝の焚書[編集]
詳細は「焚書坑儒」を参照
- 秦以外の諸国の歴史書の焼却。
- 民間人は、医学・占い・農業以外の書物を守尉に渡し、守尉はそれを焼却する。
- 30日以内に、守尉に渡さなかったならば、入墨の刑に処する。
- 法律は、官吏がこれを教える(民間の独自解釈による教育を禁じると言うこと)。
始皇帝の焚書により、様々な書物の原典が失われた。しかし、壁の中に書物を隠す[注 1]などして書物を守った人もおり、それが、秦の滅亡後再発見され学問の研究に役立った。また、儒教の書物が狙われたと考えられがちであるが、他の諸子百家の書物も燃やされた。
ナチス・ドイツの焚書[編集]
詳細は「ナチス・ドイツの焚書」を参照
ナチス・ドイツの行った焚書では、カール・マルクスなどの社会主義的な書物や、ハインリヒ・ハイネ、エーリッヒ・ケストナー、ハインリヒ・マン、ベルトルト・ブレヒト、エーリヒ・マリア・レマルク、クルト・トゥホルスキー、カール・フォン・オシエツキーなどの、「非ドイツ」的とみなされた多くの著作が燃やされた。
また売れない画家としての前歴を持つアドルフ・ヒトラーは、それまでの芸術の規範を飛び越えた近代的な芸術を退廃芸術として弾圧し、それに代わって肉体美や農村などを美化した「古き良き」芸術を大ドイツ芸術展を開いて称揚した。
アメリカ GHQによる焚書[編集]
「日本における検閲」も参照
第二次世界大戦終結後のGHQによる「軍国主義的」と判断された書籍の処分を、西尾幹二等は批判的立場から「焚書」と呼んで批判した[1]が、この「焚書」とは書物を焼き払う行為ではなく、「没収宣伝用刊行物」への指定であり、禁書に近い。西尾幹二はGHQが7,769点の指定リストをつくったと記している。1946年(昭和21年)、GHQが「宣伝用刊行物の没収」と題するタイプ打ちの覚書[2]を日本国政府に送ったことに始まる。書物の没収は全国的に行われたものの、一般家庭や図書館にある書物は没収対象にはせず、書店や出版社から、あるいは政府ルートを通じ、国民に知られないよう秘密裏に行われた[1]。溝口郁夫の『没収指定図書総目録』によると、出版物を多く廃棄された上位3社は[1]、1位は朝日新聞社(140点)、2位は大日本雄辨會(83点)、3位は毎日新聞社(81点)であった。