現時点で一般的に謂われている順番∧系譜∧流れ〆(ドレガホントナノサイエンス)
言語関連
√ルート(祖)
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梵字 - Wikipedia(悉曇文字)
日本で梵字という場合は、仏教寺院で伝統的に使用されてきた悉曇文字を指すことが多い。これは上述のシッダマートリカーを元とし、6世紀頃に中央アジアで成立し、天平年間(729年-749年)に日本に伝来したと見られる。
文学書物
人類派生分派
国家形成過程状況
√ルート
倭 - Wikipedia (和∧俀とも記す。)
乂~
ナガレ~
民族性
『魏志倭人伝』にみる倭人の習俗[編集]
「魏志倭人伝」も参照
3世紀末の280年から297年にかけて陳寿によって完成された『三国志』「魏書東夷伝倭人条」には、夫余・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・馬韓・辰韓・弁辰・倭人の9条が含まれる。倭人条には風俗・慣習について以下のように記されている。
- 男子は大人も子供も区別なく皆が顔と体に文様を描いている(「鯨面文身」)。夏王朝の少康がこのようにして蛟龍の害を防いだ。
- 文身は巨大な魚や水に棲む怪物を寄せ付けないためである。諸国の文身はそれぞれに異なる。
- 古くから中国に詣で、使者は皆自らを大夫と称している。
- その風俗(社会生活の意味)は乱れてはいない。
- 男子は皆頭をそって、頭には木綿をかぶり、その衣は横長でそれをただ束ね結わえて連ねて着るものでほとんど縫ってはいない。女子は髪を伸ばして髷をつくり、衣は一枚を被るようにその中央に穴をあけて頭を通して着る。
- 稲、紵麻を栽培し、桑で蚕を育てて絹を紡績し、糸や布を作る。
- 牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない。
- 兵器は矛・楯・木弓を用いる。木弓は下を短く上を長くし、竹の矢軸の矢は鉄製か骨製の矢じりを用いる。
- 有無するところ、儋耳、朱崖と同じ。
- 倭地は温暖。
- 生で食べ物を食べる。
- 人の死に際しては棺はあっても槨のない、土で塚をつくる。
- 人が死ぬと10日あまり、哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。喪主は激しく哭泣し、他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
真珠や青玉を産出する。
山には丹がある。(植生についても述べられている。)
骨を焼き吉凶を占う(太占)。
集まりや座る順には父子男女の区別はない。
酒を嗜む。
長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。
女は慎み深い。
国の大人は妬まず、盗みもなく、諍いや訴訟も少ない。
法を犯す者は軽い者は妻子を没収し、重い者は門戸および宗族を没収する。
尊卑が初めから決まっていて、大臣たちは服することに納得している。
税を収奪する。邸(偉い人の広い居住屋敷)や閣(偉い人を招くための高い建物)といった豪華な建物がある。
下戸は大人と道路で遭遇するとためらって草へと入り、あらたまった言葉を聞くときにはひざまづいて両手は地につけて恭順を示す。
ここに記された文化の諸特徴が、南方的要素の強いことはしばしば指摘されるところであり、民俗学的、文化人類学的、考古学的ないし歴史学的な論考の資料として重視されることが少なくない。
順番∧系譜∧流れ
旧石器時代:縄文時代:約1万5,000年前(紀元前131世紀頃)[* 1]から約2,300年前(紀元前4世紀頃)
弥生時代:
日本列島の旧石器時代 - Wikipedia
日本列島の旧石器時代(にほんれっとうのきゅうせっきじだい)は、人類が日本列島へ移住してきた時に始まり、終わりは1万6000年前と考えられている。無土器時代、先土器時代ともいう。
人類[編集]
4000万年前まで日本海が存在せず、日本列島は大陸の一部であった。約7万年前に、北方からはマンモス、ヘラジカ、トナカイ、ヒグマ、ナキウサギ、キタキツネなど、南方からはナウマンゾウ、オオツノシカ、カモシカ、ニホンジカ、ツキノワグマ、ニホンザルなどが移り住んでいた。動物たちと同じく、それらを追って大陸の旧石器時代人も大陸から移り住んできたと推定される。その後、日本列島が大陸より切り離されることにより、それら動物や人類も独自の進化を遂げることになる。
斧形石器による推定[編集]
1973年(昭和48年)、東京都府中市武蔵台の武蔵台遺跡と千葉県の三里塚55地点遺跡で刃部を研磨した磨製の斧形石器が発掘された。出土層準は約40,000 - 30,000年前の立川ローム第X層中であり、分布は列島全域に亘る。これら刃部磨製石斧は現時点で世界最古の磨製例であるが、3 - 4万年前に集中し、その後は草創期まで出現しない。しかしこれら磨製石器の出土によって、日本列島の旧石器時代の人類の生息が示される[22]。
化石人骨による推定[編集]
かつては愛知県豊橋市で発見された「牛川人」が最も古い(約20万年前の旧人)とされていたが、2001年(平成13年)の再鑑定によって、人骨である可能性がほぼ否定されている(ナウマンゾウなどの獣骨と見られている)。
比較的良好な保存状態で発見された沖縄県八重瀬町港川採石場で発見された港川人は、1万8,000年前の新人である。後期更新世か後期旧石器時代に当たる。眼窩上や眉間の隆起が発達したやや原始的で頑丈な頭と顔、小柄な体格、華奢な上半身比較的頑丈な下半身の特徴を持ち、縄文人に繋がる特徴を備えているという。
遺伝子による推定[編集]
日本人に約35%の頻度で見られるY染色体ハプログループD1b系統は日本列島に初めて到達した現生人類のタイプと考えられており、3.7-3.8万年前に日本列島で誕生したとされる[23]。
縄文時代 - Wikipedia
縄文時代(じょうもんじだい)は、年代でいうと今から約1万5,000年前(紀元前131世紀頃)[* 1]から約2,300年前(紀元前4世紀頃)、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられる。
概要[編集]
縄文時代は、縄文土器が使用された時代を示す呼称であったが、次第に生活内容を加えた特徴の説明が為されるようになり、磨製石器を造る技術、土器の使用、農耕狩猟採集経済、定住化した社会ととらえられるようになった。
名称[編集]
「縄文」という名称は、エドワード・S・モース(Edward S. Morse 1838年 - 1925年)が1877年(明治10年)に大森貝塚から発掘した土器を Cord Marked Pottery と報告したことに由来する。この用語は矢田部良吉により「索紋土器」(さくもんどき)と訳されたが、後に白井光太郎が「縄紋土器」と改めた。続いて、「縄文土器」という表記が用いられるようになった。時代の名称が「縄文時代」に落ち着くのは戦後のことである。なお佐原真はこの語の原義を念頭において「縄紋」という呼称を使用している[1]。
弥生時代 - Wikipedia
弥生時代(やよいじだい)は、北海道・沖縄を除く日本列島における時代区分の一つであり、縄文時代に続き、古墳時代に先行する。およそ紀元前3世紀中頃(この年代には異論もある)から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称である。
弥生時代は、水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が列島外から北部九州に移住することによって始まったとされる。しかし、1994年、縄文末期に属する岡山県総社市の南溝手遺跡(みなみみぞていせき)の土器片中からプラント・オパール(イネ科植物の葉などの細胞成分)が発見され、さらに同県真庭市美甘(みかも)姫笹原の4500年前の土器にもプラントオパールが発見され、2005年には岡山県児島郡灘崎町の縄文時代前期(約6000年前)の地層から大量のプラントオパールが見つかり、少なくとも約3500年前からすでに陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていたとする学説が数多く発表され[1][2][3][4]、また水稲である温帯ジャポニカについても縄文晩期には導入されていたともいわれ、現在では稲作開始時期自体が確定できない状態である。また、縄文式土器から弥生式土器の移行をもって弥生時代への移行とすることもあるが、特に東日本では弥生式土器と縄文式土器の区分も不明確であり、編年の基準としては使いがたい。