御伽草紙の世界へヨウコソようこ
Fair is foul, and foul is fair
Hover through the fog and filthy air.
3.12.15
マインカンプ
テロは同程度のテロで対抗しない限り必ず成功する。
命は弱さを許さない。
自己をあらゆる武器で守ろうとしない制度は、事実上自己を放棄している。
生きようとする者は戦わなければならない。この永遠の格闘の世界で、争うことを望まない者は生きるに値しない。
自分の中の敵と戦い、勝利せよ。獅子身中の虫を見つけ出して潰せ。 否定的な意見は病気と同じで、放っておくと悪化する。内部崩壊の原因になる。
理念の欠如は、闘争力の限界を示している。従って、目標と理念の無い運動は決して究極の武器を用いることが出来ない。理念がしっかりしていなければ、卑怯と言われるような厳しい武器の使用をためらう。(理念を持たない親は、子に厳しく対処できず、日和見主義に走る)
自由は戦いによって得られる。泣き言は通用しない。自分の意見を他人に認めさせるか、屈服させるかである。自らの力で自らを守れない者は、強い者に従属させられるものだ。例え弱くても、拳で自分を守るだけの意気地をもつべし。
敗北は後の高揚の原因となり、困難は人間のエネルギーを結実させる。 ・ 熱い情熱は民族の運命を転回させることが出来る。 情熱がほとばしらず、口が閉じられている者を、神は自分の意志の告知者に選んだ事はない。
敵対する理念を抹殺するために戦うのではなく、自分達の理念を実現するために戦え。敵がいなくなれば目的が達成できるというものではない。目的を実現させる事が、重要な戦いなのだ。
我々が世論と言っているものは大半が絶え間無い啓蒙によって呼び起されたものである。世論は人為的に作られ、移ろい易く、絶えず啓蒙しておく必要がある。 ・ マスコミは下衆である。この下衆が所謂世論の2/3を製造し、その泡から議会主義という神の愛が生まれたのだ。口当たりの良い言葉を用いるマスコミや人間は自己の利益のみに動くか、単なる馬鹿である。用心すべし。
責任は全て敵にある。戦争の責任についてドイツだけに責任があるのではない、と論じるのは間違いであって、例えそうだとしても、責任はすべて敵に負わせる事が正しいのである。重要なのは私の責任ではないと突っぱねるのではなく、あいつの責任だと突っ放すのである。単なる責任回避では卑怯者、腰抜けの誹りを免れない。人を相手に交渉する場合、弱み、手の内を見せたらやり込められる。責任を取るのが嫌で、相手に責任を擦りつけるのみでもいけない。あくまで、交渉のカードとしての責任を論じる事が、有効な攻撃の手段となり得る。
運命を決する様な困難な闘争においては、知識の無い者が敗れるという様な事は殆ど起こらない。かえって知識のあるものは最も弱気な結論を引き出し、それを嫌々実行に移すために敗れる。へ理屈やごたくを並べる小賢しい人間より、いざという場合一生懸命に黙々と戦う者の方が頼り甲斐がある。 (友達的先生は、根っこの所で生徒に頼られていない。厳しくても尊敬できる先生を生徒は頼る。)
歴史は言葉によって動く、がしかし、文章としての言葉ではなく、演説、扇動によって語られる熱い言葉によってである。直に語られる言葉でなければ、「これを読んで、行動を起こしなさい」と書籍を渡されても、民衆は揺り動かない。人間の情熱、意気込み、確信といったものを感じさせる事で言葉に対するリーダーシップが無ければ大衆はついて来ない。「言って聞かせて、やってみせて人は動く」-山本五十六。 いくら愛だの平和だの書き連ねてみたところで、実績と実行力のある人の一言には遠く及ばない。
理念は飽くまでも目的のための手段であり、それ自体が目的である様に自負すると危険になる。平和という理念を実現するために戦争を放棄すれば国体は滅びるのだ。 ・ 組織は全ての点で必要悪である。それはせいぜい目的のための手段であり、最悪で自己目的となる。
宣伝の範囲は広く、戦う組織は堅固であること。支持者は多く、党員は少なく。 過激派は支持者がいないので、運動量を増やし、目立つ様にしなければ、存在さえ大衆に忘れ去られてしまう。支持者がいないから異常な行動に走るのである。支持を失う事を恐れないからである。自分勝手な個人も同様の心理で他人に迷惑をかける。
英雄に成功条件の保証はいらない。運命から成功の保証を要求する者は、自ら英雄的行為の意義を断念している。成功して当たり前だと思われるからである。弱が強を倒すという意外性が重要なのだ。誰もが絶対勝てるだろうと思っている戦いから、英雄は生まれない。
優秀な経営者は少数精鋭を旨とし、凡庸な経営者は多数愚鈍を喜ぶ。人数が多いと、他の誰かがやるだろうという空気が生まれる。
実績の無いキャリアは無意味である。自分は昔から活動してきたという理由だけで、最小限の成果すらもたらさず、敵の勝利を阻止出来なかった者は全く役に立たない。
名誉無き市民は生きるに値せず。自分の大切な名誉を簡単に捨てる人間を、いったい誰が信用するだろうか。 自分の名誉さえ簡単に捨てるのだから、他人の事はそれ以上に軽いだろう。 日本も奴隷になっても戦わないべきだ、名誉ある降伏をしようと言う文化人がいるが、それはプライドの無い馬鹿者の言である。 後々自分がどう扱われるのかを考える事が出来ないのだ。これを真に受ければカルタゴと同様の理由で日本は滅びそうである。降伏に名誉などない。敵は抵抗する者にはそう手出しが出来ないが、降伏した者には残酷である。いじめも同じ理由でおこる。
自分の敵に憎まれる事の出来ない人物は、無価値である。こう言う人物が示す友情はむ価値であるばかりか有害である。厳しい現実を勝ち抜いてきた人は、例外無く自己の信念を貫き通している。 良く思われようとする人物は、必然的に自らの貞操を捨てているか、全くの無思想人間に成り下がるしかない。 無価値な人は有害である。
弱者はあくまで弱者である。協力団体の形式によって弱い同盟が強い同盟に変る事は決してない。 逆に強い団体がそれによって弱くなる事は有り得る。弱い団体を集めれば強くなる要素が生じると考えるのは間違いである。大手スーパーに対抗するために地元商店街が同盟を組んだとしても勝負にならない。数の理論が成り立つ様な幻想を抱かせるのは、弱者でも一人とカウントする民主主義の弊害である。戦いの理論には通用しない。弱い者と結合して強者は優れた点を犠牲にしてはならない。生まれつきの弱者だけが、強者による支配を残酷だと思うのだ。
企業の合併吸収の場合、人員整理と規模の縮小が行われ、増えた資産で生き残りを図るのみであり、形式はどうであれ、一つの合法的企業乗っ取りに他ならない。その時、弱い企業、(つまり、役に立たなかった企業)が痛い目を見るのは当然である。弱い相手と手を組むな。これが鉄則である。
自分を追いつめれば、自分の意外性が見られる。危険になると人間の本性が現れる。
人間は経済的利益の為に戦う時から出来る限り死を避ける。しかし、自分の子を助けようとする行為は、弱々しい母でさえ英雄にしてしまう。
我々は敵を絶滅する根こそぎに、容赦なく、断固として。
私は戦争を望む。私にとって手段はすべて正解となる。
私のモットーは「何も行わずに敵を悩ませる」ではない。私のモットーは「完全にすべての手段で相手を倒す」だ。
私は支配者ではない。指導者である。
私は戦争を行う者である。
私の後に続き君が世界に踏み出すときがきた。
私は間違っているが世間はもっと間違っている