TOP

Google Tag Manager

2015年11月28日土曜日

ブラック企業への就職やアルバイト・パートは期間を問わず絶対にしてはいけない

ブラック企業への就職やアルバイト・パートは期間を問わず絶対にしてはいけない


先に――
ブラック企業の定義はいくつかあるが、低賃金など金銭的な問題や、サービス残業を強いることは勿論のことであるが、私の考えとしては、恣意的か否かに問わず、突然、不利な条件や状況に追い込まれたり、自分に何ら否の無い事柄で、相手が恣意的に侮辱的な言葉で屈辱を感じさせたり、侮蔑的な態度を取られたりして、自分自身の感情を少しでも害された事実がたった一度でもあれば、それはブラック企業に認定しても良いと考えている。そのような人間のいる職場というのは会社組織全体に問題があることに起因している可能性もあり、問題のある人間がその唯一人である可能性は非常に低いと考えられるし、自分自身に対して厭な態度をとってくる人間の数も増えてくる恐れがあるからだ。そして、一度あることは二度あるし、二度あることは三度あるし、さらには、段々とそれ度合いも、エスカレートしていくことは目に見えているからだ。
ブラック企業か否かの判断は、第三者の判断に頼るより先に、自分自身の持っている自尊心や直感で判断すべきものである。そしてブラック企業だと自分自身が判断してから、第三者や公的機関などに、ブラック企業に認定するよう配慮して行動に移すべきである。
自分がブラック企業だと感じたのであれば、それは完璧で誰が見ても真っ黒なブラック企業であるという確信を持つことが何より重要である。

ブラック企業は絶対に駄目!!!


その理由としては数えきれない程に幾つかあり、ここで簡潔に説明することは、大変骨の折れる作業ではあるが、最低限のことだけは記しておくべきだと思い(今後、ブラック企業・グレーな企業を少しでも減らすことが当初においての目的であり、窮極的な目的としては撲滅することが《無論、合法的に》必要であると考えに至った為である。)

無論、その為には時間も労力も途方も無いものになることは明らかであり、それと同時に非現実的な話に受け止める人々が大多数であることは、私も理解している。

しかしながら、現状のようなあまりにも常軌を逸しているような、悪質で酷い労働環境や労働条件で酷使されている人達が私が見る限り非常に多く感じる。

雇う側の人間や長くその会社にいる人間は、人として適応するべき環境でない環境に適応してしまい、つまり長い期間、その環境にいるうちに慣れていき、つまり順応してしまった種類の人間であるため、それが当たり前のように思えるようになっているため、当然、考え方、価値観などでギャップが生じてくることになる。それが、人間関係におけるストレスの原因の一つであることは疑いようの無い事実である。

刑務所や精神病院における閉鎖病棟で長期間過ごした人間は、その長いブランクの為、社会に復帰出来ないこと当然であることはおろか、社会復帰することに対する意欲や意思の欠如や喪失、それと興味深いことには現状に満足すらしているような態度や振る舞いを見せることもあり、会話をしていれば分かるのであるが確実に上に述べたような思考を持っている。

それは、10年、20年と長い期間、社会と隔離され閉鎖された空間で過ごしてきた人間にとっては当然の反応であり、そうでなければ余りにも過酷な条件下に置かれている人間は、現状をはっきりと認識しないように無意識のうちに思考することを拒否しているはずである。つまり抑圧された環境に適応するためにそのようにならざるを得なかったはずである。
彼らが自分が置かれている現状をはっきりと認識し、その上で自分の将来等、今後のことをあれこれ考えを巡らしたことで味わうことになるストレス、また、苦痛は途方もないものであり、その人間は、最終的には肉体的にも精神的にも、人間であり人間ではない敢えて言うのであれば廃人になってしまうであろう。
いうならば、いわゆる会社人間という人種はこの類の人間であって、自分達の置かれている環境、状況に何の疑問も抱くことなく、否、疑問を抱かないよう自己正当化して、一労働者として、目下の人間に自分と同じような仲間を無意識的に創りあげようとしているとさえ言っても言い過ぎではないであろう。若しくは、自分に隷属させることや、自分の劣等感を紛らわす目的で目下の人間には威張り散らし、虚勢を張り、目上の人間には隷属根性むきだしの惨めな生きものに過ぎないのである。

しかし、その責任は彼自身にはなく、彼が長期間、置かれた環境と習慣と、根本的な原因というものは、この現代の日本の社会制度自体にあるのであるが、ここで一気に話を大きくし過ぎると、物事の事実関係、実態が曖昧になり抽象的になってしまうので、ここでは割愛させてもらう。
現実においては具体的な事実を元に自分自身の態度決定をして行動に移さなければ良い結果は見えてこない。

また会社、企業による、手段を選ばない悪辣で労働者への尊厳や尊重など人権に関する非常に人として最も大切な心遣い、言葉を変えて言うのであれば、配慮であったり、対応の仕方であったり、様々な表現方法があるが、私はここでは、『扱う』という分かり易い言葉を使うことにする。
労働者を奴隷のような感覚で、罪の意識さえ感じることなく当たり前のように、いわば何とも思わず、平気でそのように扱うような種類の人間が、ここのところ増えてきたように感じる。

そのような人間には、それ相応の対処、対応が必要であるのは、言うまでもなく当然のことであろう。

そういった種類の人間の言い草や口癖はこうであろう。

「自分も最初は君と同じように扱われてたのだ。それを我慢してきたのだから、当然、君も我慢するのが一般的な常識であり世間では何処でも同じである。また、これは当然のことでもある。何故なら、君は新入社員として新しく入社したばかりだし、ここの会社に入社したからには、ここのルールや決まり事を守ってもらう。まぁ、慣れるまでは我慢することだ。何事も忍耐することだ。慣れるまでが大変なだけだ。」

このような屁理屈を言ってくるに違いないし、そいういった言葉には耳は貸すとしても、受け入れる必要は皆無であると私は考える。理由は、先にも述べているように、考え方や価値観が違いすぎてお話にならないからである。

今後、社会人となる若者、及び、失業して職のない者や、低賃金で雇用されている人達に対する同情や思いやりや配慮といった考えからこのようなことを書いているわけではなく、私が知る範囲で、出来る範囲で、情報を提供することは当然の義務であると考えている。これは少し傲慢に思われるかもしれないが、今の世の中を見る限り無駄で無意味な労働が多すぎると日々感じている。
同じ動作を繰り返すだけの単純作業、キャリアアップに繋がるようなスキルを高める労働や、人間としての精神、及び、倫理的な価値観等の成長を促す労働が皆無に近いと私は考える。

さて、話が変わるが以下に目を通してもらいたい。


アダム・スミス著 国富論より一部抜粋


 それなら国家は、国民の教育をほっといても良いかと反問されるかも知れない。教育の要不要は、その社会状態による。政府がほっといても、大部分の個人がおのずとその社会状態で必要な能力や徳を身に付ける場合もあるし、そうならないで、政府が配慮しないと、大多数の国民が腐敗し堕落する場合もある。 分業が発達すると、労働によって生活する人々、つまり人民の大多数の仕事は、少数のごく単純な作業に限られる。ところが、大部分の人々の理解力というものは、日常の仕事によって必然的に形成されるものである。一生涯少数の単純作業を繰り返している人は、人間として可能な限り、愚かで無知になり、感情も荒れ、私生活上の日常の義務や国の利害についても正しい判断が持てなくなる。その上、単調な生活は、勇気を失わせ、兵士の不規則で冒険的な生活を嫌がるようにしてしまう。彼の特定職業における巧妙さは、知的、社会的、軍事的な徳性を犠牲にして獲得される。だが、進歩した文明社会ではどこでも、政府がそれを防がぬかぎり、働く貧民、つまり大多数人民は必ずこういう状態に陥るのである。 これに対して、狩猟民や遊牧民の社会では、また製造業と外国貿易が生じる前の農耕民の社会ですら、そういう事は起こらない。そこでは各人が多様な仕事をせざるを得ないから、発明力はいきいきと保たれるし、各人はみな戦士であり、ある程度政治家でもあって、その社会の利害や統治者の行動に一応の判断を下せる。もっとも、こうした社会では、文明社会において時に少数の人に見られる発達し洗練された理解力は誰も持っていない。各人の仕事は多様でも、社会全体の仕事の多様性の幅は小さい。みなある程度の知識と発明力を持っているが、ずば抜けたのは出ない。文明社会では、大部分の人の仕事は単純だが、社会全体の仕事は無限に多様である。そこでこの事は、自分は特定の仕事に就かず、他人の仕事を調べる暇と意向を持った人にとっては、思索の無限の対象になる。文明社会では、少数者の偉大な能力にも関わらず、大多数の人民は、人間性の高貴な部分を打ち壊される事になりかねない。 文明化した商業社会では、国家は、ある程度地位や財産のある人々よりも、一般民衆の教育をよく配慮する必要がある。地位や財産のある人が職業に就くのは、十八、九才になってからで、修行の時間があり、親もその為の費用を惜しまない。その仕事は、複雑で頭を使い、また余暇も多い。ところが、一般民衆は教育に割く時間がない。子供は働けるようになるやいなや、パンを稼ぎに出る。その仕事も単純で長時間の肉体労働であり、余暇はほとんどない。 どんな文明社会でも、この人たちに、何らかの地位や財産のある人々のように高い教育をする事はできないとしても、不可欠の読み書き、計算を、職業に就く前に教える時間はある。そして、国家は僅かの経費でこういう基礎教育の習得を容易にし、奨励し、また義務として課する事さえできる。 たとえば、各教区に、労働者でも子弟を出せる安い月謝の学校を設け、もっと為になる読本を教えさせ、生かじりのラテン語の代わりに、幾何学と機械学の初歩を教えさせれば、まず可能な限り完全な教育になろう。国家は成績の良い者に賞金やバッジを与えて奨励しても良いし、同職組合員になる時、あるいは開業許可の前に、そうした基礎教育の科目について試験を課しても良い。 その上、文明化すると、軍事訓練は衰え、国民の尚武の精神もすたれてゆく。現在では、尚武の精神だけでは、社会の安全は期しえず、常備軍がなければなるまいが、各市民が兵士の精神を持っていれば、常備軍は少なくて済むだろうし、外敵に対しては常備軍の作戦を助け、また万一常備軍が国家に反抗する場合にはその活動を阻むだろう。国民の臆病は、肉体の不具以上に危険な病気である。国民の尚武の精神が、たとえ直接国防上役に立たないとしても、政府は臆病が大衆に伝染するのを真剣に防がねばならない。 これと同じ事が、文明社会における下層民の無知についても言える。人間の知的能力を適切に使えないのは、臆病以上に軽蔑すべきものであり、人間性におけるいっそう深刻な不具である。だから国家は、下層階級の教育から何の利益も認められないとしても、ほっといてはいけない。まして下層民の教育は国家にとって利益になるのである。すなわち、教育を与えれば与えるほど、無秩序を引き起こす熱狂や迷信に捕われなくなり、秩序正しくなり、反乱や煽動のうちにある利己的不平を見抜く事もでき、政府の施策に無用な反抗をする事も少なくなる。自由な諸国における政府の安全は、人民の好意的判断に大きく依存しているのだから、人民がせっかちで気紛れな判断をしないという事は、最高に重要なのである。

大部分の人々の理解力というものは、日常の仕事によって必然的に形成されるものである。一生涯少数の単純作業を繰り返している人は、人間として可能な限り、愚かで無知になり、感情も荒れ、私生活上の日常の義務や国の利害についても正しい判断が持てなくなる。


↑↑↑ここ重要↑↑↑




『権利のための闘争』 ルドルフ・フォン・イェーリング著


権利のための闘争は、権利者の自分自身に対する義務である。自己の生存を主張することは、生きとし生けるものの最高の法則である。この法則は、あらゆる生きものの自己保存本能として示されている。しかし、人間にとっては、肉体的な生存ばかりでなく、倫理的なるものとして生存することも重要であり、そのための条件の一つが権利を主張することなのである。人間は、自己の倫理的生存条件を権利というかたちで保持し、守るのであって、権利をもたねい人間は獣に成り下がってしまう。*だからこそ、ローマ人は、抽象的な法の観点からは理屈どおりに、奴隷を家畜と同列に置いたのだ。したがって、権利を主張することは倫理的自己保存の義務であり、権利主張を全体として放棄すること(それは今日ではむろん不可能だが、かつては可能であった)は倫理的自殺〔権利能力=法的人格をみずから抹殺すること〕である。また、法というものは個々の法制度の総体にほかならず、一つひとつの法制度は――所有権も婚姻も、契約も名誉も――それぞれ人間存在にとっての物理的もしくは倫理的な生存条件となっているのだから、そうした生存条件の一つだけを放棄することも、権利の全体〔権利能力〕を放棄することと同様に、法の立場からして認められないのである。むろん、他人がこうした条件の一つを攻撃することはありうるのであって、その攻撃をはね返すことは権利主体の義務である。けだし、これらの生存条件が権利によって抽象的に保障されているだけでは不十分であって、権利主体がそれを具体的に主張することが必要なのだから。この主張のきっかけを与えるのが、他人の恣意による侵害だ、ということになる。
 以上抜粋オシマイ

自分の能力に見合った、また、自分が興味があり、好きで求める職を見つけるため、技術を身につけたり勉強することは非常に有意義なことであり、学問とは人間としてとても高貴な精神を備え持つ尊い行為である。
働くことは大切である。仕事を持つことは非常に価値のあることである。
しかし、単純に仕事、職業、労働の意味や概念をごちゃ混ぜにして捉えてはいけない。
労働の概念は時代と共に変化してきたし、これからもそうであろうから、常に時代に見合った柔軟な考え方を持つよう心がけるべきであると私は考える。

こう言っても差し支え無いと思う。

生きていく手段として労働は一つの手段に過ぎないのであるということを。

生きていく手段は労働以外にも幾らでもあるということを認識してもらい理解して納得してもらいたい。

人間にとって生きていく中で大切なことは、勿論、人それぞれ異なるものであるし、人の数だけ、生きる意味は違うと私は考える。(しかし、何も生きる意味や意義を持っていない人達のなんと多いことか!これは不幸と呼ぶべき現象なのかどうかも私には答えが見つからない。それは何も考えずとも、ただ生きているだけで幸せであると、公言していたり、自称してたりする人間が多くみられるからである。これは本心からそう考えているのであろうか、それとも錯覚、またはいわゆる認知不協和の状態に陥っているのかは断定できないからだ。)

人間本来の、つまり自然の欲求としては別として、人間にとって大切なものと考えられるものとして「時間」というものがある。時間といっても有意義な価値のある時間、無意義で無価値な時間、楽しい時間、楽しくない時間、と様々な時間における感覚が存在する。

話はだいぶ飛躍してしまって、意味が分からない箇所も多いが、ここで一旦、話を始めのブラック企業、ブラックアルバイト・ブラックパートに戻そう。
簡単に纏める。

以下、箇条書き。



  • ブラックだと思ったら、すぐ辞める。
  • 正当な手続きをせずとも会社に突如行かなくともよい。
  • ブラック企業で労働することにより被る被害は、肉体的にも精神的にも甚大なものであり、それは自殺や過労死の可能性のある確実に危険でな通過地点であるということを認識すること。
  • ブラック企業で労働するということは、ブラック企業に貢献しているという意味で、ブラック企業同様に害悪な存在にまで自己を陥れるという自分の尊厳や価値を喪失させる行為である。
  • ブラック相手に各種雇用関係、労働関係、所得に関する書類の提出を求めるのも相手側が嫌がるし、手間を掛けさせられるという点で効果的。
  • 労働基準監督署に行き、自分があった体験や苦痛を報告。証拠になるものを持って行かないと労基局は動かないから、準備万端で臨むこと。
  • ブラックで働いて得る12万円と生活保護で得る12万果たして自分にとってメリットのある方はどちらかを自分の価値観で判断する。
  • ブラックで働くのと、生活保護で生活するのと、どちらが人間としての尊厳を保っていられるのかよく考えること。
  • 生活費が無いのなら、国から生活保護なり申請して受給者になればよい。
  • ブラックで働くということはブラック企業に貢献して、更に被害者を増やすことになるということを自覚しなければならない。
  • これ以上、ブラック企業を増やしてはいけない。
  • 国や自治体や各種省庁などの行政機関を利用して役人にサポートしてもらうこと。
  • 自分の正当な権利を主張すること。
  • 犯罪行為に繋がる事は絶対にしないこと。罪を犯しては絶対に駄目である。
  • ブラック企業が行なっている事は合法的にやっているように見え比較的犯罪行為が脆く露見するものである。
  • 犯罪行為が実際にあり、被害を被ったという自覚が微塵でもあれば警察署に行き、被害届を出し、余裕があれば民事でも訴訟を起こすこと。お金がない場合は少額訴訟制度もあるが、法テラスに無料相談を行い、弁護士さんを無料で活用して、動いてもらいましょう。
  • 時間にゆとりを持つこと。そうすれば自ずと肉体的にも精神的にも余裕が生まれ、新しい自分に合った生き方が見つけられるようになります。
  • 自分が自由に利用することのできる有意義で価値のある時間が一番大事だということをよくよく認識すること。
  • 無意味で無駄で無意義な労働と、それで得ることのできる僅かな賃金などで、時間という最も大切で価値のあるものを奪われてはいけない。
  • 無意味な労働の為に生まれてきたのではないという事を強く自覚すること。
  • 自分自身と家族の生命と尊厳と価値観、倫理観を守るためには、権利を強く主張して行動すること。つまり何らかのアクションを起こさなければ現状は何も変わらないだけでなく悪化していく一方である。それを我々は打破しなければならない。それが自分自身と大切な家族を守るための最も確実な手段である。そして、それが窮極的には我々一般国民全体の利益となるのである。


「自ら虫けらになった者は、踏み潰されても文句は言えない」
 イマヌエル・カント




おそ松くんOP・正調おそ松節 投稿者 suzukisaport990013


おそ松くん音頭 FULL