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27.11.15

『権利のための闘争』 ルドルフ・フォン・イェーリング著

『権利のための闘争』

ルドルフ・フォン・イェーリング

内容(「BOOK」データベースより)
自己の権利が蹂躙されるならば、その権利の目的物が侵されるだけではなく己れの人格までも脅かされるのである。権利のために闘うことは自身のみならず国家・社会に対する義務であり、ひいては法の生成・発展に貢献するのだ。イェーリング(1818‐92)のこうした主張は、時代と国情の相違をこえて今もわれわれの心を打つ。








 権利=法の目標は平和であり、そのための手段は闘争である。権利=法が不法による侵害を予想してこれに対抗しなければならないかぎり――世界が滅びるまでその必要はなくならないのだが――権利=法にとって闘争が不要になることはない。権利=法の生命は闘争である。諸国民の闘争、国家権力の闘争、諸身分の闘争、諸個人の闘争である。

 世界中のすべての権利=法は闘い取られたものである。重要な法命題はすべて、まずこれに逆らう者から闘い取られねばならなかった。また、あらゆる権利=法は、一国民のそれも個人のそれも、いつでもそれを貫く用意があるということを前提としている。権利=法は、単なる思想ではなく、生き生きとした力なのである。だからこそ、片手に権利=法を量るための秤をもつ正義の女神は、もう一方の手で権利=法を貫くための剣を握っているのだ。秤を伴わない剣は裸の実力を、剣を伴わない秤は権利=法の無力を意味する。二つの要素は」表裏一体をなすべきものでああり、正義の女神が剣をとる力と、秤を操る技とのバランスがとれている場合にのみ、完全な権利=法状態が実現されることになる。




 権利のための闘争は、権利者の自分自身に対する義務である。
自己の生存を主張することは、生きとし生けるものの最高の法則である。この法則は、あらゆる生きものの自己保存本能として示されている。しかし、人間にとっては、肉体的な生存ばかりでなく、倫理的なるものとして生存することも重要であり、そのための条件の一つが権利を主張することなのである。人間は、自己の倫理的生存条件を権利というかたちで保持し、守るのであって、権利をもたねい人間は獣に成り下がってしまう。*だからこそ、ローマ人は、抽象的な法の観点からは理屈どおりに、奴隷を家畜と同列に置いたのだ。したがって、権利を主張することは倫理的自己保存の義務であり、権利主張を全体として放棄すること(それは今日ではむろん不可能だが、かつては可能であった)は倫理的自殺〔権利能力=法的人格をみずから抹殺すること〕である。また、法というものは個々の法制度の総体にほかならず、一つひとつの法制度は――所有権も婚姻も、契約も名誉も――それぞれ人間存在にとっての物理的もしくは倫理的な生存条件となっているのだから、そうした生存条件の一つだけを放棄することも、権利の全体〔権利能力〕を放棄することと同様に、法の立場からして認められないのである。むろん、他人がこうした条件の一つを攻撃することはありうるのであって、その攻撃をはね返すことは権利主体の義務である。けだし、これらの生存条件が権利によって抽象的に保障されているだけでは不十分であって、権利主体がそれを具体的に主張することが必要なのだから。この主張のきっかけを与えるのが、他人の恣意による侵害だ、ということになる。